局長プロフィール

局長プロフィール

Kyoku-cho<新撰組グループ>代表 重田光康(以下、重田局長)
1965年9月8日、鹿児島県徳之島にて生まれる。

 

幼少時代

建設業を営み、徳之島の闘牛会長を務めていた父親からペット代わりに血統書付きの闘牛を与えられ、幼い頃から1年365日休まず闘牛の世話をし、普通の子供のように友達と遊んだりした記憶はあまり無い。徳之島では牛を横綱にするというのが一つのステイタスであり、毎日2時間そのためのトレーニングを行なっていたという。闘牛用の牛は時々、飼い主が殺されるという事件が起きるほど獰猛かつ危険であるが、父親に託された牛を見事に育てあげ、当時、徳之島で最も大きかったというその牛は、最終的には横綱にもなった。そして、愛情を注げばいくら獰猛な牛でも気持ちが伝わるということを重田局長は生きた教育として学んだ。

 

中学・高校時代 - 鹿児島市へ。

徳之島にいた当時は兄弟揃ってガキ大将であり、体が小さいながらも喧嘩では負け知らず。中学時代には父親を亡くすというつらい経験をしながらも、勉強は常にトップクラスで、県下でも5本の指に入る名門校、鹿児島工業の土木科へトップの成績で入学を果たす。生まれ育った徳之島を離れ、鹿児島市内へ移った重田局長は、喧嘩で鹿児島中の高校のトップに立つことを目標として掲げ、それを実行。手はじめに同じ1年生の13クラスを1週間でまとめ上げ、次いで2年生、3年生と制し、1年生が終わる頃には校内で誰も逆らう者はいなくなった。さらに他の高校の番長にも次々と喧嘩を挑み、連戦連勝を続けた結果、遂に総番長の座を獲得。鹿児島中に「鹿児島工業の重田」という名前が轟くこととなった。時にはヤクザに喧嘩で打ちのめしたがために、逆にヤクザに追われて死を覚悟するなどの過酷な経験を積んだ一方で、授業態度は非常に真面目であり、成績は常にクラスの5、6番以内を維持。そして、順調に福岡県・博多にある東和大学へ進学した。

 

大学時代 - 博多焼き鳥屋『屯所』での博多風焼き鳥との出会い

大学への入学早々、彼が履いていた下駄を見て、上級生に「下駄を履くのは主将や応援団長だけだから脱げ」と理不尽な言いがかりをつけられたため喧嘩となり、100キロ以上もある相撲部の生徒に全治3ヶ月の重傷を負わせる。こうやって大学内でも嫌が上に目立つ存在となってしまった重田局長であるが、この博多の地で運命の出会いを果たすこととなる。それはアルバイト先である焼き鳥屋『屯所』で出会った博多風の焼き鳥であった。鹿児島では見たことの無い焼き鳥の種類の多さと、その美味しさに衝撃と深い感動を受けた。

約2年間、『屯所』にて一生懸命働いた重田局長であるが、しかし、まだ当時は自分自身が焼き鳥屋を営むとは想像もしておらず、父と同じく建設業へ進むこと以外は全く考えていなかった。焼き鳥屋に続いて、大学3年生からは中州の高級クラブにてボーイとして入り、その真面目な勤務態度が評価されて、バイトでありながらも主任を務めるほどにもなる。さらに大学4年になって日中の授業が無くなり、昼間は派遣で建設現場で汗を流していた。そのためにも学生としては破格の稼ぎがあり、半年間で貯めた百万円を元手に友人と共にたった3日間で豪快に使い果たすという大人顔負けの経験もしている。

 

限界への挑戦 - ロサンゼルスへ。

持ち前の努力家としての性分も手伝って、幼少の頃からここまで自分が思ったことは全て成し遂げ、全てが順風満帆であった重田局長であるが、その頃を振り返ってみると、そこには「天狗になった勘違い野郎な自分」がいたという。そして、高校、大学で土木を勉強し、このまま父親と同じ道に入るという決められた路線にも何か満足が出来ない感情が生まれてきた。「俺はこのままで良いのか?」という思いと、自らの限界を見たいという気持ちが入り混じり、そして、これからは英語も必要であろうという漠然な思いが彼をアメリカへ向かわせることとなった。とはいえ、当時、アメリカの都市で名前を知っているのはロサンゼルス、ニューヨークぐらいであり、日本からも距離的に近いということで、「ロサンゼルスが良いんじゃないか」という友人の軽い一言でロサンゼルスを選んだという。

 

限界への挑戦 - ロサンゼルスにて、ビジネスを目指すきっかけになったものとは。

大学を卒業後、すぐにロサンゼルスへ渡って語学学校へ通い始めたが、当初、英語の成績は散々なものであった。ビールを買おうスーパーへ行っても、店員の言う「Show your ID(IDを見せろ)」という言葉の意味が判らないために、ビール一本すら買えず、日本では決して味わったことの無い強い敗北感を味わい、自らの無力さを思い知らされる。しかし、そこから必死で英語の勉強をして、語学学校での成績もクラスのビリからトップへと這い上がることに成功。しかし、高い授業料を払い続けることが出来なかったために語学学校を半年で辞めざるえなかったが、英語もまともに話せないまま日本へ帰っても恥ずかしいという思いもあり、ビジネスの道を目指すこととなる。そこで浮かんだのが、不動産業であった。重田局長はアメリカでの不動産取引の資格取得をその目標として掲げ、さらに空手道場である芦原会館のロサンゼルス支部に通って異例の早さで黒帯を取得していたことから、空手の全米チャンピオンになることも決意。ただし、当時の語学力では不動産の勉強をするにも専門用語だらけで、辞書を使いながら一つのセンテンスを訳すのに1時間以上かかるというのもざらであった。しかし、敢えて周囲に「一発で不動産取引の資格を取って、空手の全米大会も初出場初優勝すると」と宣言し、自らを追い込み、奮い立たせた。そして、資格の勉強をしながらも、朝から弁当配達や掃除のアルバイトも手がけ、毎日の睡眠時間は2、3時間程度という生活を続けた後、1年後に不動産の試験を受け、見事合格。その1週間後にコロラド州のデンバーで行なわれた空手の全米大会でも約束通り、初出場初優勝を果たした。

 

限界への挑戦 - 挫折と模索の日々

こうやって自らの限界まで挑戦し、無事に目標を達成した重田局長であるが、その一方で幾ら資格を取っても、満足に英語も喋れず、アメリカ社会に於いて何も信用が無い状態で、不動産の仕事は決して順調とは言えない状況であったという。そこで、生活費を稼ぐために清掃会社を作って、ダウンタウンのビルの掃除を請け負い、朝早くから深夜2、3時まで働くという生活を開始。しかし、仕事を取るためにあまりにも破格な値段で仕事を請け負っていたために手元にはお金がほとんど残らず、体力のみを消耗するという状況に限界を感じていた。そこで自分の性格にも合っていて、日銭商売で自分を売り込める仕事として思いついたのが飲食業である。そして、大学時代に博多で初めて博多風の焼き鳥を食べた時の感動を思い出し、その感動を皆にも伝えたいと思って、ロサンゼルスにて焼き鳥屋を始めることを決意。すぐに博多へ戻り、2ヶ月間、みっちりと焼き鳥屋にて開業に向けての修行を行なった後に、再びロサンゼルスへ戻ってきた。

 

『新撰組』の開店に向かって

そのまま準備万端で即開業といきたかったところであるが、店舗物件を見つけるのに苦労することとなる。ロサンゼルスでは飲食店の開業の際、十分な数の駐車場を確保しないといけないという法律があり、いい物件を見つけて市当局へ開業に関する申請しても、駐車場の制限に引っかかって却下される。しかもそれが数十回と繰り返され、無駄に年月が過ぎていった。しかし、半ば諦めかけそうになった時に思い浮かんだのが、今の『新撰組焼き鳥 本店』が建つ場所であり、語学学校で知り合った今の奥さんと初めてデートをした時に、「ここで焼き鳥屋でもやったら良いよな」と何の気無しに話をしたのを今でも明確に覚えているという。当然、その当時は実際に自分が飲食業を行なうとは想像もしていなかったわけであるが、結果的にはまるで運命に導かれるように再びその地に引き寄せられ、既に入っていた日系レストランのオーナーと交渉して物件を譲り受けることに成功。そして'92年9月、遂に第1号店をオープンすることとなる。

実際、その店が軌道に乗るのまでには多少の時間がかかり、3年間は自分の給料も出ない状態であったという。まだ慣れない素人同然であり、従業員が少ない状態にも関わらず、オープン当初から数多くのメニューを用意していたために、仕込みにも時間がかかり、必然的に時間は全く無く、満足に睡眠時間を取ることは出来なかった。それでも、辛抱強く努力を重ねた結果、'96年6月には『新撰組ちゃんこ茶屋 ガーデナ店』、『新撰組博多ラーメン ガーデナ店』を2店舗同時にオープンし、ロサンゼルスの日系コミュニティを驚かせる。 創業から15年を経て、ロサンゼルス内と東京に計11店舗を構えるまでに成長した<新撰組グループ>。創業当時からは想像もつかないほどの大所帯となったこの熱い集団を率いる、重田局長。その勢いは衰えるどころか、ますます激しさを増している……。